災害救援局より

お大師さま(弘法大師・空海)は、真言密教を日本に伝来し真言宗を開いただけでなく、 土木・建築・医療・教育・学芸など、多方面にわたり才能を発揮されました。 その多才さの故か、日本各地にはさまざまな「弘法伝説」や「お大師信仰」が今に伝わっています。 さまざまな顔を持つ弘法大師空海とは、いったいどのような人物だったのでしょう?お大師さま(弘法大師・空海)は、真言密教を日本に伝来し真言宗を開いただけでなく、 土木・建築・医療・教育・学芸など、多方面にわたり才能を発揮されました。 その多才さの故か、日本各地にはさまざまな「弘法伝説」や「お大師信仰」が今に伝わっています。 さまざまな顔を持つ弘法大師空海とは、いったいどのような人物だったのでしょう?

誕生

お大師さまは774年(宝亀5年)讃岐国多度郡屏風浦(さぬきのくにたどのこおりびょうぶがうら=現在の善通寺附近)に御誕生されました。父の佐伯田公(さえきたぎみ)は讃岐国の有力な豪族で、母の玉寄姫(たまよりひめ)は阿刀氏(あとし)の人でした。空海の幼名は真魚(まお)といいます。幼少の頃、土で仏様を作り拝む姿を見て、人々は真魚少年の賢く、すぐれた様子をたたえて貴物(とうともの)と呼びました。

少年時代

 真魚少年は讃岐国の国学(国府の役人を育てるための豪族の師弟を教育する学校)で熱心に学問に励みました。788年、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)の奨めにより都で勉強することになります。この頃、桓武天皇は、奈良の仏教を政治から遠ざけるために、都を平城京より移して長岡京を建設していました。791年、真魚少年は大学の明経道(みょうぎょうどう=儒教を中心に、歴史や漢文などを学ぶところ)を学ぶことを許されました。
 しかしこの頃より、政治の世界への疑問、学問への疑問を感じ始めました。その時一人の沙門(しゃもん)と出会い、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という修法を教わります。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言(虚空蔵菩薩をたたえる梵語で書かれたことば)を百万遍唱えるというもので、記憶力を高めると同時に宇宙の真理に近づける法といわれております。真魚少年は虚空蔵求聞持法との出会いによって大学や都の生活を捨てて修行時代に入ることになります。

修行時代

 一人の沙門との出会いによって、真魚少年の人生に大きな転機がおとずれました。それから長い年月にわたって、各地を巡り厳しい修行生活を送ります。ある時は、山林修行者たちに混じって、またある時は、たった一人で・・・
 そして、土佐国(とさのくに)の室戸崎(むろとのさき)の岩屋で虚空蔵求聞持法を完成します。この修法は、真言を一日二万回となえて五十日間かかります。それはそれは大変な修行であったと思われます。そうして、最後の五十日目、真魚の口に明星が飛び込んだといわれます。この日から「空海」と名乗るようになりました。
 その後もさらに厳しい修行を続けました。797年、久しぶりに郷里に帰った空海さまに対し、両親は仏門に入ることを許してくれませんでした。空海さまは、24歳のとき、最初の著作である『三教指帰(さんごうしいき)』を著しました。この書には、儒教・道教・仏教の三つの教えのすぐれた点がそれぞれの立場から書かれ、なかでも仏教が最高のものだと説き、この書によって、自分が仏教にひかれた理由を明らかにしました。両親に『三教指帰』を読んでもらうことによって、やっと仏門に入ることを許されたのです。
 空海さまはさらに修行に励みます。そして、諸国の寺を巡り、さまざまな経典を読みつづけました。そして、大和国(やまのとくに)の久米寺(くめでら)で『大日経(だいにちきょう)』と出会うのです。

入唐

 この大日経と出会い、空海さまはそれに大きな魅力を感じます。
そして、この経典の深奥に導いてくれる師を求め、唐に渡る決心をします。
 
 時は移って803年、平安京(桓武天皇は、都を長岡京より山城に移しました)。空海さまは、阿刀大足に留学僧(るがくそう)として遣唐使(けんとうし)の一行に参加できるよう朝廷にはたらきかけてくれるように懇願します。また、かねてより付き合いのあった大安寺の僧侶勤操(ごんぞう)の力添えもあり、正式に朝廷から入唐を認められました。まもなく、空海さまは、東大寺の戒壇院(かいだんいん)で戒めを受け、正式に僧となったのです。
 804年7月6日、肥前国田浦(ひぜんのくにたのうら)を4隻の遣唐使船が出航しました。空海さま一行は、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の乗る第一船に乗り込みました。同じように天台宗の宗祖・最澄(さいちょう)さまも第二船に乗っていました。ここで、最澄さまは短期留学の研究僧である還学僧(げんがくそう)であるのに対し、空海さまは長期留学(最低でも20年滞在)の留学僧であったということです。
 遣唐使船が無事に唐まで渡る確立は極めて低いといわれておりました。早くも出航の翌日嵐にあい、4隻の船はちりぢりになり、約一ヶ月の漂流の後、8月10日、空海さまを乗せた第一船はやっと唐の赤岸鎮(せきがんちん)にたどり着くことができました。しかし、二ヶ月近くも留め置かれた後、結局上陸は認められず、さらに南の福州に向かうことになります。10月3日、空海さま一行は福州に上陸しました。しかし、ここでも役人は遣唐使であることを信用してくれませんでした。ここで、空海さまは役人に対して書を送り、まぎれもなく自分たちが日本から来た遣唐使であり、上陸の許可を希いました。その文章があまりにも名文であったため、上陸が許可され11月3日、一行は長安に向かうことを許されました。12月23日、長安に到着しますが、ここで第二船以外は行方不明になったことを知ります。

密教との出会い

 空海さまは早速西明寺(さいみょうじ)を訪ねます。ここで、留学僧として30年間も長安で学ぶ永忠(えいちゅう)に出会い、大日経について学ぶならば、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果和尚(けいかかしょう)が唯一であることを教わります。空海さまは恵果和尚から密教を学ぶために、その準備として梵語、インド仏教などを短期間に学びます。
 805年5月、ようやく恵果和尚との面会を許可された空海さまは青龍寺の門を叩きます。恵果和尚も空海さまの訪問をたいそう喜ばれ、密教の奥旨をすべて伝える約束を受け8月の上旬、密教の法を伝える灌頂(かんじょう)を受けることになりました。そして、恵果和尚より「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前を授かりました。恵果和尚は空海さまに対し、密教の法具・経典・曼陀羅(まんだら)・法衣などを用意し、日本に早く帰って密教を広めることを願い、これを遺言として12月15日亡くなりました。実に恵果和尚と空海さまとの出会いは、運命的なものであったといえるでしょう。

帰国

 恵果和尚の多くの弟子からの懇願で、弟子僧を代表して恵果和尚を称える碑文をつくり、翌806年はじめ、日本から上陸した遣唐使船に乗り込み帰国します。しかし、またもや嵐にあい、船は木の葉のようにもてあそばれました。空海さまはこの嵐の中で、もし無事に日本に帰れたならば、修禅の道場を建てて、国家の平安と人々の幸福を祈りたいとの願いをたてました。そして、その願いがかなったのか一行は10月、無事に九州の博多に帰り着いたのです。